曽根パワーズ |
昭和57年5月の日曜日、野球部に入っていた中学3年の長男が「今度の大会で試合をするには、保護者(大人)がついてなければダメ」といわれた、という。急に私がついて行くことになりました。 実は、豊中一中野球部は、T先生が部活動で準硬式の指導され、地域の軟式大会に参加する時は、スポーツ少年団「豊中パワーズ」としてボランティアで先生が引率監督し、子供たちの指導世話をして頂いていたのです。その先生が4月に他校に転勤され、監督がいなくなりました。 野球はテレビを見るだけの私でしたが、57年4月スポーツ少年団「豊中パワーズ」から分団して「曽根パワーズ」として、その後
大会ごとに子ども達について行き、また毎週日曜日や夏休み春休みには、学校に校庭使用の許可を頂き。私は校舎の日陰でイスに座って、子ども達の練習を見るだけ。 父兄の中にはコーチをしてくださる方はおられましたが、長男が卒業して代表を引受ける方がおられず、3年間続けて、やっとバトンタッチできました。その思い出です。 |
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活動のねらい 学校教育のクラブ活動のなかで野球が次第に敬遠されようとしてきていました。グランドが狭い、クラブ数が多い。施設破損や障害事故などの心配もある――などが主な理由といわれています。充分に野球の練習や試合のできない少年達に、日曜日や祝日を利用して、思う存分に活動できる場を与え、野球を通じてルールの尊重フェアープレイの精神・敢闘精神を学び、心身の鍛錬に努め、立派な社会人になることを、ねらいとしています。 このため、学校教育のスポーツ活動とは別に、社会教育としてのスポーツ活動として少年たちの発達を側面から応援していました。 (S57.4 松井喜章 ) |